バラ屋敷に眠る姫君

…永久の夢を見る少女のように。




 現在の屋敷の主は少年である。父と兄は古くから騎士を輩出したこの家のしきたりによって、遠い国の騎士として召し抱えられた。一族の男は皆、騎士となる運命を背負うものだがこの少年だけは違う。花を愛で、芸術を愛するその少年は、兄の影響で昔から戦いを嫌っていた。そもそも、その適正はなかったのが事の始まりなのだが。
 バンガ族は他の種族よりも力に抜きん出た種族である。傭兵・騎士・ハンターなど、戦闘に適正のあるものがなれるジョブへ多くのバンガ族は就くものだ。しかし、ベックスはヒュムを母に持った影響なのかバンガとしては非力であった。ヒュムに比べればその筋力は充分だが、バンガにしかなれない多くのジョブに就けるほどのものではない。
 もう1つの特徴としてバンガ族というのは魔力といったものには恵まれない種族であるが、ベックスの兄は生まれながらにバンガとは思えぬ特殊な声帯を持っていた。これもヒュムを母に持った影響なのだろうか、他種族が詠唱するような魔道も扱うことができ、魔道に特化した騎士として召し抱えられた特異な人物だった。

 バンガ族の戦士と生きることはできず、兄のように特殊な声帯を持つこともない。そんなベックスは、バンガ族として生まれながらそのように生きることができない不遇な運命を背負った。父のような騎士にも、兄のような魔道士にもなれない彼は哀れなことに村の者からも軽蔑されて生きていかねばならなかった。

(…父は何も言わない寡黙な方だったが、心では俺を不出来な息子だと思ったに違いない。兄さんはそんな俺にも優しかったけれど)

 日課である庭の手入れを終えて、母の面倒を見るため屋敷へ戻ったベックスは煎れたてのローズヒップティーを持って母のいる寝室にやってきた。母も兄も、そして自分もこの紅茶は大好きだった。愛する男と息子と離れて暮らさねばならないベックス同様に不憫な女性である。

「母さん、紅茶を入れましたよ」
「…あら、ベックス。どうもありがとう、いつもいつもごめんなさいね」
「いえ、大したことではありませんよ」

 薄く微笑む母を見る。ヒュムの血を継いだせいで、バンガとして生きられなくなったことを恨んだこともある。それでも、母も辛い思いをして生きてきた。家に縛られ、自由を求め愛した男と結ばれた。けれども、父と兄である息子と離れて暮らすこととなったそんな母を同情した。辛くて逃げ込んだ先で、父は遠くの国へ行き、残された母は村が恨まれる原因となったことから疎まれている。そんな母を守る、幼き少年はそう心に誓ったのだった。

 しかし彼の母は、母と呼ぶにはあまりに若かった。美しい黒い長髪も、球のような白い肌も、成人して宮仕えを始めた息子を持つとは思えないそのあどけない容姿には訳がある。

「母さん、あの日のことはまだ思い出せませんか」
「ええ…ごめんなさいね。まるで記憶が抜け落ちたみたいで」

 彼のいうあの日とは、一年前に父と兄が宮仕えとなり旅立っていったすぐ後のことだった。屋敷へ忍び込み、母に何か魔術のようなものを施して去っていったという魔道士の話。村へ夕飯の買い物へ行っていたベックスが帰った頃、母によく似た少女が家にいた。そう、それが彼の母である。

「今もまだ、オレが息子だということを思い出せませんか」
「ええ、でもね…あの人によく似た貴方はきっと息子に違いないのだから。それで私はいいの」

 奇妙なことに、母の記憶はその若返った年のときまでしかなかった。記憶も容姿も戻ってしまった。その魔道士が何を目的としてそのようなことを行ったのかわからない。記憶は失われたものの、以前は治る見込みのない病に侵されていた母だが、若く健康だった頃に戻れたことを喜んでいる。

「なくした記憶も、積み上げていけばいいのだから…」
「兄は悲しむと思いますが、貴女がそれでいいのなら今は構わないでしょう」
「ええ、だから貴方も気負わないでね。今のところ、何も不都合はないわ」

 気丈に笑う母だが、記憶が失ったままでいいはずはない。たとえ、健康な体ではなくなったとしてもいつかの母へ戻ってほしい。そのためにもいつかこの村を出て、母に呪いを掛けたという魔道士を探したい。しかし、それでもこの母を残してこの村を出るのは心残りなのだが。

「そういえば、例のお友達。今日も来るんでしょ?」
「ええ、たぶんそろそろくるとおも」

 振り返って窓を見ると、そこにはそのお友達が張り付いていた。

   * * *

「リグ…」
「あ、ごめんごめん!外の鍵、閉まってたからさ〜」
「まあ、表から入ってこられるよりは良いんですけどね」
「リグ、いつも訪ねてくれてありがとう。さあ、早く召し上がってくださいな」
「あ、ベックスのお母さん。ありがとうございまーす」

 一週間前からこの屋敷に訪ねてくるようになった少年、ベックスの初めての友達であるリグ。彼がこの屋敷へやってくるようになってから、雰囲気が幾分か明るくなったように感じる。部屋のカーテンはいつだって彼がやってくるのがわかるように開いておくようになり、部屋にはいつも西日が射し込んだ。
 いつものように焼き菓子とローズヒップティーを出す。3人で過ごすこの時間がいつも待ち遠しい、ただの子供に戻れたようでどこか嬉しかった。兄がいて、父がいた日は当たり前だったこの風景が再び戻ってきたことは、ベックスにとっては幸いである。

「村の様子はどうですか?」
「んーあいかわらず大人はみんな忙しそうだよ。オレにはよくわかんないけど」

 諜報活動をしたい訳ではなかったが、やはりリグの村のことは気に掛かった。万が一リグがここへ来てることが知れ渡れば、母のときのようなことになりかねない。彼のことを思えば、本当は屋敷へ招いてはならないことはわかっていた。
 けれども、リグは幼い身でありながら両親はいつも家に不在だという。同族の子供がいない彼はいつでも、村から少し外れた野原で遊ぶことだけが楽しみだそうだ。友もいないでたった一人で遊ぶというのは、きっと退屈で寂しいことだろう。そんな彼が少しだけ不憫だった。
 あちらの村が何かに勘づいたときには、リグと会うことをやめなければならないだろう。何年も経ったとはいえ、子供が村から消えたとなればあの事件のことを思い出すだろう。こんな幸福な時間が永遠に続く予感がしない、いつだって愛した人は遠くに行く運命だったからと。

「ベックス?」
「夕立が来るそうですから、今日は早めに帰った方がいいですよ」
「そっかー残念だなあ」
「残念ねえ」

 リグに釣られてベックスの母がそう言った。こんなにいい天気なのにねえという意味も含まれているとわかって少し笑う。洗濯物を外に干したときのおひさまの匂いが好きなのと言っている、見た目はただの少女でしかないその人は本当の子供みたいだ。

「私がこの年の頃はこんなに穏やかに過ごしたことはなかったわ、笑ったり悲しんだりする間もなかったもの」
「でもさ、もう笑ってもいいんだから」
「そうね、そう…貴方たちがいるから、まるでお姫様みたいだわ。こんなに素敵な殿方に囲まれて、楽しく笑って過ごせるんだもの」
「父上が嫉妬しますよ」
「そうね、そうなったらあの人もちょっとは可愛いわね。いつも仏頂面なんだから、少し怒るぐらいがいいのよ」

 失われた青春をもう一度過ごせるという意味では、時を戻されたことはよかったのかもしれない。辛い記憶を塗り替えて、今を笑えるならばそれでもいいのではないかと。それでも過去はなかったことにならない、彼女はいつまでも村人にとっては嫌われ者でしかない。

(やはり、このままでは…)

「空が曇ってきました。雑木林まで送りますよ」
「うん、今日も楽しかった!」
「それはよかったですね」

 綺麗に焼き菓子を食べ終わった皿を片付けて、茶渋が染み付いてきたカップを下げる。階段を慌ただしく駆けるリグに、危ないですよと咎めればさっそく盛大に転んでみせた。まるで手間の掛かる弟のようで放っておけない。
 彼を送ってきます、そう彼の母に言ってから屋敷を後にした。空には雲が集まって、今にも降りそうといった具合である。バラ園に水をやらなくてもいいけれど、洗濯物を取り込まねばならないなと思いながら屋敷を出る。

「それでは、また」
「うん、また明日」

 走り去っていくその姿をあと何度見られるだろう、幸福にありながらそんなことばかり考えてしまう自分が嫌になるけれど。明日またやってくる彼のために、次は何のお菓子を作ってあげようと思案する。ふとまた振り返ってこちらに手を降るリグにまた、そっと手を振った。

「さて、家事をしなければ」

 遠くで雷鳴が聞こえた、帰りに降られないといいけれどもと心配しながら屋敷へ戻っていく彼を見ていたものが一人。

「…あいつ、ヒュムのガキと何やってンだ?」

 予報より早く降り出した雨が、まるで不吉を告げるように地上へ降り注いでいった。