丘の上のバラ屋敷にて

…過去を匂わす花の匂い。




 向いのバンガ族の村にある丘の上のお屋敷には風変わりなバンガの子がいる。村に同年代の子供がいないと退屈がっていたリグにとっては、その話は魅力的に感じた。父も母も不在がちな少年リグは、いつも森に出向いて探検をしていた。何もない静かな村で、大人たちは労働に勤しむばかりで相手にはしてくれない。
 実は幼い彼は知らないが、大人たちとの労働とは向かいのバンガ族の村とは長年緊張状態にあり領土拡張の為、攻め込む準備をしていることであった。村同士がそのような関係にあることは、両親がなかなか家に戻らないリグには知らされてもいないし、きっと知らせる気もなかったのだろう。

「…あそこがお屋敷かあ」

 村はずれにある為に忍び込むことは容易であった。雑木林を抜けた先にあったその家は、誰が手入れしているのか興味を沸かせるほどに美しい庭園が広がっている。色とりどりの花の香りがこちらまで漂ってくるようだ。リグはタガーを腰につけていることを確認してから、屋敷へ歩み寄る。

「お屋敷に住んでる子って、どんな人かなあ」

 ほどなくしてやってきた庭園の中には、噴水を取り囲むようにバラが咲いていた。自分の村にはなかったその花を興味津々といった様子で覗き込む。良い香りがする、石鹸のような匂いが家を思い出して情けないことに心細くなってくる。不意に匂いの元に手を伸ばし、触れようとしたときであった。

「…誰ですか。君」
「あっ!ご、ごめんなさい!」

 突然声を掛けられ、思わず謝りその声の主を見た。自分より少し背の高い少年である。もしかすると彼がこのお屋敷に住むバンガの子なのかもしれない。恐る恐る相手を見ると、何やら不思議そうな顔でこちらを見ている。

「…泥棒にしてはいきなり謝るなんて律儀ですね」
「え、怒らないの?」
「まあ、怪しさ全開ですけど…その花に目をつける辺り何だか悪い人には見えないもので」
「あ、これ?すごくいい匂いがするなあって思って」
「そうでしょうね、それは石鹸の匂いの基にもなる花なんですよ。で、君はどこから来たのですか?」
「えっと、この村の向かいにある村から…」

 そう呟いたところで、誰かの足音が近付いてきた。すると少年がとっさに隠れてと茂みの中へ追いやられた。やって来たのは彼と同じバンガ族の男らしく、何やら少年と話し始めた。突然茂みに押し入れられ、バラの刺で軽い傷がついて泣きそうになったが、先ほどの少年の目がどこか必死だったのが気になってので我慢することにする。

「お、ベックス。誰かと話してなかったか」
「いえ、気のせいじゃないですかね。それで、何か用でしょうか…あいにく母さんならまだ寝ていますよ」
「ああ、あンなヒュムの女はどうでもいいさ。それより、文は今日も来ていないか」
「いえ、父からの便りはありませんよ。やはり宮仕えの身ですから戻ってくるのは難しいかと…」
「仕方ねえな、例の作戦決行日も近いがあの方抜きでやるしかねえってことか」
「ええ、申し訳ありませんが」
「ま、とにかく警戒を怠るなよ。この家にはもう、お前と父ちゃんも兄ちゃんもいないし、いるのは戦えないお前とヒュムの女だけだし…ここを陣取られたら困る」
「用心しますよ。用がそれだけなら、お帰りになってください。騒ぐと母さんが起きてしまいます」
「…そうかよ、じゃあな」

 何だか不機嫌な物言いをした男は去っていく。それからもう出てきていいですよと言われたリグは茂みから這い出た。何やら難しい顔をしながら、ベックスと呼ばれてた彼はバラを見つめている。

「申し送れました。俺の名はベックスと言います…それで、君は?」
「えっと、オレはリグっていうんだ」
「そう、リグですか…君は向かいの村から来たと言いましたね。どうやら事情を知らないみたいなので、我が家に上がっていきなさい。お茶くらい出しますよ」
「え、いいの?」
「はい、君みたいな子供はこの村にはいませんからね。毎日退屈しています」

 そういって、手を引かれてその花が香る白い壁が美しい屋敷の中へ誘われた。荘厳な彫刻を施された扉を開けると、外装と比べても遜色ない、赤茶色の壁に囲われた立派な屋敷である。見たこともないような装飾に目を取られていると、たくさんの彫像や絵画があるのが目についた。そのどれもが美しく、芸術の価値などわからないリグさえ見惚れるほどだ。

「この絵とか、すごいなあ」
「それは兄さんが作ったものですよ。まあ、今は家を留守にしていますが」
「へえ、さっき言ってた宮仕えしてるお父さんとお兄さんのこと?」
「ええ、この家には今母しかいませんよ。病気がちで日長寝込んでいるので、話し相手がいないんです」

 そうして、真っ黒だというのに顔が映り込みそうなほど綺麗な階段を登って二階へ出た。部屋に合う焦げ茶色のテーブルが並ぶ部屋へ案内され、同じ色の椅子へ座るように促された。するとベックスはキッチンへ行くと告げ、部屋を出て行った。

「この部屋にも絵がある…」

 一際目を引いたのが、長い黒髪が美しいヒュムの女性の絵画であった。背景はこの世で一番美しいのではないかというほどの深い藍色で塗りつぶされている。優しげなその表情はまるで生きているようで、目が合ったようにドキッとした。

「お待たせしました。うちで焼いた菓子と庭で取れたローズヒップティーです」
「ローズヒップティー?」

 バターのいい匂いがする焼き菓子と共に出された紅茶からは、花のいい匂いに混じって南国を思わせる香りが混じっていた。煎れたての紅茶はとてもおいしかった。

「バラの果実のお茶ですよ。飲んだことはありませんか」
「初めてだよ。紅茶なんて行商人が来るときしか飲めないし、これ…味もいいけどいい匂いだね」
「そう言ってもらえると、兄が喜びます」
「お兄さんが?」
「ええ、あの庭にあるバラの全ては兄さんが育てたものですから」
「ふーん、こんな広いお屋敷で兄弟がいないとやっぱり寂しい?」

 ベックスは少し遅れて注いであった紅茶を一口飲み、ゆっくりと目を閉じた。その味を堪能しているように見える。それから、また目を開いて語りだした。

「…そうですね。少し寂しいですが、兄さんは大事なお仕事をしていますから」
「宮仕えってやつ?」
「ええ、王宮の騎士をしているそうですよ。兄さんは剣の腕もたしかですから」
「そういえば、ベックスのお兄さんもバンガなの?」
「ええ、そうですが何か?」
「何だかバンガの人で絵を描いてるってイメージなかったから、悪く言うようで悪いけど…その、バンガは野蛮な一族だって父さんが言ってて」
「やはり君の村は、そのように教えているのですね。俺たちのことを」

 一族の悪口を言われたというのに、別段怒った様子がないベックスに違和感を抱く。リグの村では敵対しているこの村のバンガたちは悪く見えているのだろう。園事実を知らないリグは、目の前のバンガの少年からはそのように感じない。むしろ、村にいる大人たちよりもずっと上品そうな印象を受けた。

「でもさ!ベックスがこういう感じだと、きっとお兄さんも似た感じなのかな?」
「ええ、兄さんは俺よりも優れていますし…この村の野蛮な大人たちよりずっとずっと優雅ですよ。こんな話、村の人間には言えませんが、芸術を理解せずこの紅茶や菓子も軟弱な食い物だと罵る彼らに良い印象はありません」
「そうなの?」
「ええ、オレも君たちの一族に生まれてこれたらよかったのにね」
「んー?そんなに種族が違うといけないことかなあ」
「君は本当に何も知らないのですね」

 悲しそうな目をしたベックスは、立ち上がったと思うと本棚から一冊の本を持ち出してテーブルに広げた。何やら歴史書のようである。

「このイヴァリースには、多くの種族がいることをご存知ですか」
「うん、たまにヒュム以外の人も来るからね」
「ええ、多くの街は多種族で暮らしていますが…俺と君の村のように、1つの種族が暮らしている村も少なくはありません」
「他の種族が嫌いってことかな」
「まあ、この村と君の村は少々特殊ですが…実を言えば、君と俺の村はいわゆる敵対関係なのですよ」

 ベックスが取り出した地図は、まるで相容れない思想のように分断された村と村が書かれている。比較的、新しい質の紙であるため、ここ数十年のものであることが見てわかった。

「始まりは、一人のヒュムの女性が君の村からやってきたことからでして」
「それが今、村が対立してるのと関係あるの?」
「ええ、大いにありますよ。君の村にいたその女性は村では有名な家の生まれだったらしいのですが…その家は何かと有名であるが故に彼女に厳しかったらしくてね。嫌気が差して飛び出し、この村へやってきたそうですよ」
「そんなに家が嫌だったの?」
「今でも名家の女性というのは、いつだって家の為に利用される道具に過ぎないと言いますから。彼女も、好きでもない男との結婚を決められ、慣れ親しんだ村を出るのが嫌だったそうですよ」
「そりゃ、逃げ出したくもなるか」
「ええ、本当に酷い話だ」

 そう語るベックスの顔は、怒りに震えているようでなおかつ辛そうな顔をしていた。そういえば、先ほどやってきた男がヒュムの女がどうこう言っていた。それにこの部屋に飾られた絵画に描かれているのもヒュムの女性である。これは偶然と言えるのだろうか。

「ねえ、もしかしてその女の人って」
「君、何も知らない子供かと思ったら案外聡いのですね。そうですよ、その女性は俺の母だ」
「でも、それがどうして村が対立することになったの?」
「母はね、逃げ込んできたこの村へやってきて父と出会い恋に落ちた。ほどなくして、この村に母の存在が知れまして、向かいの村にいた母の家族は強引に連れ去ったと言い張りました」
「そんなのって」
「そう…それから、言われもない罪をなすりつけられ憤慨したこの村の人間たちですが。父と母の決意は固くそのままこの村へ住み着いたそうです。この家も、村では多くの騎士を排出してきた家系です。誰も異を唱えられるものはいませんでした」
「じゃあ、うちの村は勘違いから対立してるって?」
「ええ。それ以来、村同士はいがみ合っています。君の村は母を誘拐されたと信じ込んでいる。母は辛くて逃げて来たというのに、同情される訳でもなく村の者から批難され愛した父は宮仕えで離れている。正直、誰が悪かったのかよくわかりません」
「そんなの、うちの村にいたその家の連中のせいじゃないのかよ」
「そうですね。けれども、母が逃げ出したりしなければあるいは…」
「人の人生台無しにしといて、そんな」
「…すみませんね。君にこんな話をする意味はなかった」
「いいよ、それが知れただけでも充分だよ…ベックスも、辛いんでしょ」

 俯いて何も言わないベックスだったが、それからほどなくしてこちらを向いて笑う。掛けられていた古めかしい時計がチクタクと音を立てた。

「いえ、君のように理解あるヒュムに出会えてよかった」
「え、オレはそんな…ただ」
「もしよければ、これからもうちを訪ねてきてください。見つかればただでは済まないとわかっていますが、君も俺も同年代の子供がいなくて退屈でしょう。ここへ寄り付く人はあまりいませんから。あの雑木林を抜けてくれば見つかることは、きっとないはずですから」
「…オレでいいなら、いつでも来るよ!うちも親は仕事に出ててなかなかいないしさ」

 それから、二人は他愛もない話をして。夕方になる頃、リグは裏口からそっと出て、ベックスに見送られた。花の香る庭たちも、まるでリグの帰りを惜しんでいるようだった。

「では、気を付けて」
「うん、また来るよ」

 丘の上から見えた夕日が落ちる頃、リグは初めて出来た友達が嬉しくて駆け出した。毎日、退屈そうにしていた日々が終わると思えば何だか笑みが溢れた。
 明日が来るのが、早くも楽しみである。