女という道具

…いつか消えた、人としての心。




 苦痛から逃れる術は、もはや心を閉ざすことのみである。星が見えない暗黒の空を、何も感じることはなくただ眺めていた。人権などはとうの昔に奪われ、所有者の金稼ぎの為に使われ、時には女の身にとっては酷でしかない愛玩道具として弄ばれる。
 全てを忘れるように、ここ数年の彼女は記憶を持つことを頑なに拒んだ。日々の仕事は無意識から行っているのみでいつどこで何をしたかという記憶は一切覚えていない。そうして、月日は弓矢のように流れていく。

 少女から女性へ変わり始めたその女は、彫像の如く美しき人であった。絹のような艶の黒髪。ボーイッシュな印象を持たせるショートヘアが特徴だった。所有者が死んで、新しい所有者の手に渡るもまた所有者は死んで。全ては彼女という美術品の価値を見出した者たちによる執念が起こした惨劇であった。
彼女の優れているのは容姿だけではない、小鳥が朝になり歌うような美声は生まれながらのものである。その声を聴いた者はあまりの美しさに聖母が降り立っただの天の遣いだのと言っていたが、海を好み浜辺で歌うその姿から『人魚姫』の異名を持っていた。
 しかし今ではその歌声には生気はなく、海の男たちを惑わすさながらセイレーンのようだと言われるまで変質してしまっている。美声には変わりないのだが、不吉を連想させるその声。しかしそんなものでも恐ろしいものでも興味を抱いてしまう愚かな人間の性のため、彼女は以前とは変わりなく見世物として生きていた。

 彼女の生まれは今はなき没落した貴族の家であり、以前はロザリア帝国の中でもそれなりの地位を得ていた名門であった。海にほど近いお屋敷で産まれた赤ん坊は、長らく子宝に恵まれなかったその家では大変可愛がられ愛だけを目一杯受けてすくすくと美しく育つ。
 いずれはどこかの貴族と結婚し、華やかな人生を送るはずだったその身だが先の大戦の影響により名家のブランドは地へ落ちる。それは彼女の家だけではなく多くの貴族たちも例外ではなかった。それでも貴族に一度として産まれてしまえば平民として生きるのは耐え難い。
 愛を受けて育った彼女は、皮肉にも愛していた両親の借金の肩代わりとして奴隷に身を落とした。幸か不幸か、彼女の心は容姿や声と同じくそれはそれは美しく両親が幸せに生きていけるなら、自分が奴隷になっても構わないとさえ思ったそうだ。しかし、両親が幸いの道を歩んだかもう彼女に知る術はなかったという。

 彼女には何もなくなった。愛も財産も、残されているとすれば醜い人の心に利用されるしかないこの容姿と声だけだった。両親を恋しがって日々を過ごし、少しでも泣けばやかましいと怒鳴られた。物置小屋に閉じ込められ、しこたま泣いて静かになってやっと外へ出される。目を覆いたくなる虐待だった。
 なまじ容姿に優れているせいで、暴力を振るわれることはなかったもののそれが返って地獄である。度重なる暴力で命さえ落とせば、苦痛からは逃れられたのかもしれない。それが彼女には許されない。家族でもない誰かの為に使われる。道具としての人生を宿命づけられた。

 道具に感情はいらない。泣くことを咎められ、不遇な生い立ちから笑顔をなくし、命あることに喜びを見出せず、けれども誰かを憎むことも怒鳴ることもできない美しき心。全てが彼女を追い詰め、やがて心の扉だけが静かに閉まった。

「エミリオ・ローレライ。貴族出身で血統書は文句なし。歌声は人魚姫とも言われるも、所有者の手を渡る内に感情をなくし今ではセイレーンと呼ばれる魔の歌声を持つ女、ね」
「…」

 彼女が飼われているのは、世界各所で騒がれている大人気サーカス団。華やかなその身の裏には、団員を道具としか思わぬ団長によるさながら恐怖政治を強いられているという。彼女の新しい住処はやはり地獄でしかなかった。団長に不満を持つも行動に移せず鬱憤をぶつけるために言われもなく罵られ、時に性の捌け口として利用される。
 今目の前にいるのはバンガ族の青年で、最近入団したばかりらしい。そんな話を団員たちが話していた気がするが、もはやそんなことは一切興味もない。この男も自分を道具としての利用価値しか見出さないのだろう。しかし怒ることも憎しみを持つこともない。道具は感情など持たない、期待も何もしない。
 虚ろな目をしたエミリオを見つめるその男の目は、何とも退屈そうだった。後ろからは公演が終わった団員たちがテントへ戻ってきている。奇妙な形で見つめ合うその様を見かけた一人のヒュムの男がからかうような口調で、バンガの青年に言い放った。

「それ、好きに使って構わねえぞ」
「使うって?」
「何でもいいんだって。犯すも罵るも好きにね、あーでも見た目だけはやたら綺麗だから殴らないでおけって団長が言ってたな」
「アンタも使ったこと、あるわけだよな」
「ああ、それがどうした?」
「…こンな無表情な顔しててするときに楽しいのかなって」

 本当に心の底からつまらないという風に、バンガの青年が言う。それを受けて、ヒュムの男は下品に笑った。それからエミリオの下顎を掴んで、唇を奪う。深い口付けもしたが、やはりエミリオは何も感じていない。虚ろな目は開かれたまま、何も言わず男たちを見ている。

「この通り、何にも言わないし抵抗もしないのさ」
「…そうか。ならいいわ」
「まじかよーこいつ何も反応しねえけど、簡単にさせてくれねえ女よりはマシだぜ?」
「そういうの、してるって言わねえだろ。やっぱいいわ、パス」

 そういってその場を去っていくバンガの青年を眺めていた。自惚れでも何でもないが、自分を見て事を運ばなかった男はいなかった。それが全く興味がない素振りをして楽屋へ帰ろうとしているのだ。その様子が、なぜか酷く悲しかった。自分はもう、道具としての利用価値もないと言われた心地である。

 ふと、自分がまるで人のような感情を持ったことに違和感を覚えた。しかし、そんな余韻を消し去るように先ほどの男が覆いかぶさってくる。いつもと同じ、道具として求められるだけの日常がやってきて。先ほどまでの感情は、どこかへ失せた。